リフターコラム

俺はグレート♪ 伝説論/第1部

90キロ級世界男子パワーリフティング選手権第2位/3回(84年、85年、87年)日本介護スポーツ研究所  代表 前田都喜春

2.パワーリフティングと薬物、そしてサプリメントの歴史的背景

アメリカを発祥の地とするパワーリフティングは、1974年~1978年当時はスーパースーツ、ニーバンテージやまわしベルトもなく、シャフトもハイ・バーか、ロー・バーかも分からず、スクワットやデッドリフトのフォームも何も分からない黎明期の時期だった。この創設期においては、10年間も筋肉増強剤(ステロイド・ホルモン)が蔓延していた時代である。
1978年頃にはアメリカで独占的に競技用フォームやコスチューム類の開発が行われ、最初は真っ白なスーパースーツが開発されたり、まわしベルトなどが出現した。
スクワットを見ると、ウェイトリフティングのフォームで、足幅を狭くした粘りのないフォームで試技したり、デッドリフトではスモウスタイルはまだ未開発で、何が有利かまるで分からず足幅を広げたりしてよく研究していた。つまり、より多くの筋群を使う方法すら知らずに練習や試合をしていたことになる。この黎明期は1980年までの10年間も試行錯誤が続き、筆者自身も、そして、パワー界も模索の淵から這い上がり、新しい競技パワーリフティングは新フォームやコスチューム類が開発されて、次第に現在のように方向性を定めていった。
(全日本パワーリフティング選手権)
1977年頃(33歳)には、スクワットは現在のように足幅を広くした粘りのあるフォームとなり、1977年全日本パワーでスクワット260キロ、ベンチプレス145キロを挙げて90キロ級で初めて1位に輝いた。以降、1992年まで(2種目時代を含めて)16年間連続で90キロ級の全日本チャンピオンの座を守った。
(世界パワーリフティング選手権)
過去を振り返ると、世界大会の参戦は1978年フィンランド大会(ツルク市)が最初であった。その記録は、トータル700キロ(スクワット280キロ、ベンチプレス157.5キロ、デッドリフト262.5キロ)の第8位だった。
このときデッドリフトはどのフォームが有利かまだ何も分からなかった。
(ドーピング検査)
この時代の特徴として、IOCオリンピックでは「1968年」からドーピング検査が実行されていた。IPFではそれより14年遅れて「1981年」(インド大会)からドーピング検査が開始され、11年目でステロイドホルモン(筋肉増強剤)全盛に幕を下ろした。

***

1971年創設から1981年の11年間は、ステロイドホルモンによるアメリカ史でもあり、汚染された競技イメージから脱皮できなかったが、ようやくオリンピックと同等のスポーツ倫理を持った新しい競技概念が形成されたことになる。

(薬物禍)
筋肉増強剤による異様な体型、硬い筋肉と心臓病や肝臓・腎臓への副作用が心配される薬物禍は、薬物服用者は10年で死に至るとまで言われ、黎明期の10年は筋肉増強剤にガードされた圧倒的パワーを誇る外国人選手(主として米国人)の牙城が構築されていた。
IPFでは、1981年から薬物を拒絶するアンチ・ドーピング体制を明確にした。それはまさに天の声であった。IOCからは、ドーピングに違反する競技は閉め出すとまで警告されていたから、オリンピック参入のためにも英断が下されたと言えよう。
筆者は、今も昔もプロテインやサプリメントは一切摂らず、当時は筋肉増強剤を使う外国人らと戦い・・・、現在はアミノ酸系サプリメントを常用とする内外のパワーリフターたちと戦っている。その理念は、常に強化すれば勝てるという信念、如何に勝ち抜くかという絶対姿勢を持った。
世界パワーリフティング選手権では90キロ級において、『84年』『85年』『87年』と第2位を3回獲得できたことは、「強化という財産」を蓄積しナチュラル志向を貫いた賜物だと思われる。
しかし、アンチ・ドーピングの流れに反応して時代の大きなうねりが出てきた。1987年頃から旧ソ連共産圏の開発した『新サプリメント』を取り入れた欧州勢リフターが台頭してきた。新しいアミノ酸系のサプリメントを使用して大幅な記録向上が見られるようになったのである。アメリカ勢は薬物禍に飲み込まれて、影もなく停滞を余儀なくされた。
このアミノ酸系サプリメントはドーピング検査にパスする驚異の代物で、筋肉は硬くならず、すごい記録の伸びが特徴であった。
今も昔もプロテインの摂り方は分からないが、この代物はたんぱく質の使い方やエネルギー系の使い方を初めて医学的根拠に基づき明確に区別した。つまり、たんぱく質は必ず練習の後で、エネルギー系は練習前や練習中においても摂取可能と表示した。これは驚異的であった。
日本国内においては1987年頃より導入され、東南アジアの一部でも新サプリメントを導入した一部のリフターからすごい記録が出るようになった。彼らの筋肉は「柔らかい!」特徴があり、ステロイドの硬い概念とはまるで違う新しい代物にびっくりした記憶がある。
このように、禁止薬物禍~新サプリメントへの変遷の時代で、なぜ、ノン・サプリを貫けたのかと言う疑問があるのかも知れないが、筆者の信念は一度もぶれることはなかった。

①.禁止薬物は悪いこと
②.薬物の延長にプロテインやアミノ酸もあり、毎日の食事からたんぱく質は十分摂れるので特別摂る必要なしと判断した。
③.何よりも強化すれば必ず記録は伸びる。強化をしなければ負けると結論した。


3食きちんと食べ、家族と一緒の食事で、常に強化という理念を先行して外国勢と渡り合ってきた。昭和の大記録と言われる伝説は、辛く、苦しい強化の歴史こそが筆者の財産となって現在の姿を反映しているようだ。
なお、ベンチシャツが出現したのは1994年であり、新サプリメントとベンチシャツの開発から記録向上が顕著となり、次世代を継承する多くのリフターが誕生した。同時に長期の服用から肝臓や腎臓を破壊されるリフターが出現し、新サプリメントの影響が分かった。

 

 

←第1回 はじめに

→第3回 強化デッドの生みの親

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system