リフターコラム

俺はグレート♪ MAEDA STORY ZERO
位牌のない家

90キロ級世界男子パワーリフティング選手権第2位/3回(84年、85年、87年)日本介護スポーツ研究所  代表 前田都喜春



位牌のない家の経験則

ドキュメンタリー劇場・・・、語り部として62年の人生を考える・・・!?

はじめに
誰でも遥か昔の思春期の頃を思い起こせば、どんなに家が貧しくても親が真剣になって子供を支えてくれた筈・・・。
親が一生懸命に仕事をしている姿を見て、その父親と一緒になって子供心は一緒になって育った筈だ。
今、遥かなる人生62年の歳月を経て、その経験則を回想し”人生の語り部”としてドキュメンタリー劇場を公開したい。(前田都喜春/62歳)

◎筆者談;
生誕の1945年ごろは歴史的な日本敗戦の年。それから11年を経過した昭和30年(1956)頃、我が父親は・・・、片足が不自由な障害者でありながら47歳で独立し自営したところから、我が家の『位牌のない家』のルーツが始まる。

1.人生62年を考える回想録

(1)我が家のルーツ
それは大正末期、わが父親の両親が片足障害者の息子の行く末を案じて、手に職を付けさせようと、遠い犬山・城東村から焼物の町、常滑村(今の常滑市)の窯業学校へ焼物留学させたことに端を発し、我が家のルーツ『位牌のない家』の起点が始まる。
①片足障害者の父親が、知己もいない、誰も知らない、何も知らない、初めての町、常滑村でどのように過ごしたか、また、卒業後どのように生活したのかは定かではない。必要なことは、窯業学校の数多くの仲間たちが『片足障害者』の父親を、何も知らない、初めての『村』で心から支えてくれたことである。
②常滑窯業学校を大正末期に卒業し、昭和初期から働くことになるが、学校を卒業してもすぐ役に立つわけではない。『右足障害者』の身では満足に働くこともできず、色々な事業所を転々として職に着き、その間に培った不屈の精神がやっと最後に一輪の花を咲かせてくれることになった。その長い道のりが父親の人生だった。そしてまた、その子供あり・・・。
(2)障害者は就職難・・・!?
障害者と焼物の町、そして就職難との中で最後に覚えた1つの技術。それが47歳で独立・開業するきっかけとなった技術であり、それは”片足不自由”な人間でも、1人で出来る仕事で、それに遭遇したことが父の転機となった。
①もうご存知のように、焼物の町とは近代化には程遠く、五体満足の男でも重労働で”へとへと”になるという、そんな町が陶都「常滑焼き」の町である。
それがこの町の仕事である。そんな町に、「右足障害者の男」が1人で住んでいても仕事はないのが常識であろう。自分で考え、自分の丈夫な『左足のみ』に合った仕事を捜す以外に、自分が生きる道はない。多分、わが父は必死になって自分に合う仕事を捜し続けたことでしょう。
②そして最後に出会った仕事が『片足障害の人間でも、1人で出来る仕事』つまり、それは、家業となった石膏型製造業のことである。
③それは「小さな場所でも出来る仕事」「1人でも出来る仕事」「そんなに動き回らなくても出来る仕事(多少は動くが・・・)」、そして「資本が無くても出来る仕事」で、「会社からの下請仕事」「1人だけの仕事場」。そして「それなりに覚える技術は沢山必要」なこと。こんな仕事を、父は筆者の小学校6年生のときに独立して始めたことになる・・・。
④お金のない両親は、どんなに苦労して毎日の米や食料を、敗戦後の(1945~)の物資不足の中で、食べ盛りの子供たち3人を養ってきたのか、その苦労は故人となった今では一切知ることはできない。

→ゼロ2

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