リフターコラム

俺はグレート♪ 伝説論/第1部

90キロ級世界男子パワーリフティング選手権第2位/3回(84年、85年、87年)日本介護スポーツ研究所  代表 前田都喜春


3.強化デッドの生みの親

デッドリフトを克服する絶対姿勢について、みずほクラブの恩師を忘れてはいけない。日本人体型は胴が長く、腕が短いためデッドリフトを苦手としてきた。そこで挙上距離を短くするスモウスタイルが開発されたのは1984年のこと。今では、世界各国に浸透し多くの人に愛用されているが、デッドリフト改革は26年前の1981年に遡る。デッドリフトの克服には次の3段階と11年を要した。

第1段階:デッドリフトは力学的要素が強く、自動車ジャッキのように「三角形」で引くのが一番強くなるだろうと考え、足幅を狭くして三角形を作るかに足(強化Ⅰ)というフォームで練習した。このかに足で275キロまで挙上することができた。これは競技を始めてから7年目の1980年のことで、スモウスタイルはまだ開発されていない。

第2段階:その後、ジャッキ式は強いがヒトは腰の幅があるから、その分だけ足幅を広げたら応力解放されて有利になるだろうと察知し、ようやく”スモウ・スタイル”の開発に到達した。このとき、従来のかに足が強化(苦しいフォーム)になっていたから、有利なスモウ・スタイルが応力解放になり、日本パワーリフティング史上初のデッドリフト300キロに成功した。これは1981年(東京・府中市)の全日本パワーリフティング選手権(36歳)のときであった。

第3段階:応力解放して有利なフォームだけ練習していると、維持はできるが記録が伸びないことが分かった。結局、翌年の1982年の1年間は記録が300キロで低迷した。これらの経験則として、常に強化の必要性と応力を解放する両面の役割を確認した。

(強化デッドの誕生)
記録に行き詰まっていた1982年の冬、つまり、どうゆう強化法が一番良いのか何も分からない時代・・・、みずほクラブの総帥=故海野邦夫氏より天の啓示とも言える強化理論が与えられた。パワーリフティング史上最強の強化理論はこうして誕生した。

◎『マエダよ、ウエイトの連中は高い台に乗って、手幅を広くして、こうやって引き上げているぞ~、一度やってみろ・・・!?』と、前傾のきつい姿勢で驚異のパフォーマンスを見せてくれた。まさしく、ウエイトリフティングの”スナッチ”を、台上から引き上げる究極の姿であった。今まで気がつかなかった筆者は、これを『強化デッド』と呼んだ。

◎最強の強化理論:当時300キロで低迷していたデッドリフトは、この強化理論により驚異の10%増加に成功することができた。90キロ級でデッドリフト327.5キロ、100キロ級で330キロが挙上できたのは1984年のことである。これは300キロ台に突入してから3年経過、競技を始めてから11年を経過していた。
故海野邦夫氏を生みの親とする『コロンブスのタマゴ』は世界最大の強化理論を実証したといっても過言ではない。
なお、デッドリフト330キロはその後、全階級を通じて2003年3月まで約20年間も更新されることはなかった。昭和の偉大な記録といわれる所以であろう。

 

 

 

 

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