リフターコラム

俺はグレート♪ MAEDA STORY ZERO
位牌のない家

90キロ級世界男子パワーリフティング選手権第2位/3回(84年、85年、87年)日本介護スポーツ研究所  代表 前田都喜春



位牌のない家の経験則

ドキュメンタリー劇場・・・、語り部として62年の人生を考える・・・!?


(3) 父50歳のとき、筆者は中学を卒業
①A型で引っ込み思案の筆者に対して、父親は、『何もしなくていい、野球やスポーツも危ないからやってはいかん!』と言い含められ、もっぱら家業の手伝いをしていたので、中学校2年まではスポーツは遠くから眺めていた、まさしく積極的にはなれない、消極的なA型の男子だった。
②しかし、小学校6年生のときに父親が独立して、右足不自由でも一生懸命に頑張る親父の仕事(まず、自分自身が生きていくため、そして家族を生かすために必死で・・・)をみて、内気な子供心にでも、「親父の後を継いで、家の仕事をやるんだ!」という強い意志が芽生えた。中学生になるとクラブ活動やスポーツよりも、真っ先に家に帰り・・・、家の仕事を手伝うようになった。
世に言う、『親の生き様(背中)を観て子は育つ!』、という無意識の行動が子供心にも生まれていたようだった。
③親父が1人で製造した石膏型製品を、発注者に届けないとお金にならない。自動車輸送のない時代であったから、それは人力で運ぶ「荷車」に積み込んで子供たちが運んでやらないと、我が父親には不可能な仕事であった。
それよりも、1人仕事の製造業であるから、運び出しに手が入り用になると、製造ができない一人二役のまね事は到底出来ない事情から、家業の手伝いという協力部隊は家族たちの必須の仕事になってきた。
もっぱら運搬は子供たちの仕事となり、製品の積み込みから、重い「荷車」を引いて片道40分ぐらいの所を、お得意様の所へ製品を届ける仕事が子供の協力部隊の任務だった。
④このとき、一つだけ(内面的に大きな!)問題があった。
それは、荷車を引いて帰ってくるとき、丁度、クラブ活動から帰る同じ中学の生徒に出会うときが、帰りの「荷車」を引いている自分の姿から、思春期のとても恥ずかしくなる思いを感じていた。「荷車」を引く仕事がいやというのではなく、その姿を同じ中学の生徒に見られるのがいやだった・・・。
丁度、帰路と中学校の方向は一緒であるため、帰路の「荷車」は必然的に下を向いて帰るような、そんな思いで親父が生きるために必死で見つけた仕事の運搬役を、思春期の中で一手に引き受けながら「荷車」を引いて手伝っていた。
⑤この「荷車」引きは中学卒業まで続いた。
中学を出て、晴れて家業を継いで父親の仕事を覚える頃に、ようやく日本国はモータリゼーションの入り口に差し掛かり、初めて荷物専用の軽トラック「ホープスター号」の中古車を、父親がはるばる名古屋まで買いに走り、あの思い出深い「荷車」引きの出会いからやっと解放された。
この時代の車は四輪ではなく自動三輪「軽」トラックである。しかも、丸ハンドルではなく単車のようなバー・ハンドルで、セル式モーターではなくキック式のエンジンスタートで動力をかける大変な時代であった。やがてバー・ハンドルの「ミゼット車」が出たのはこの頃である。・・・その後、丸ハンドルにもなった。
それは昭和35年(1960)以降~のことでテレビジョンが世に出たのはこの頃だが、カラーテレビはずっと後の4年後、昭和39年だった。(東京オリンピックの年に発売!)
⑥その父親は、右膝のカリエスが悪化して右足の大腿部から切断(54歳)し、義足の生活となった。しかし、それ以降は驚くほどの健康体となり、平成11年1月21日、91歳で人生を終えた。波乱の前半と安寧の後半だったようだ・・・。

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